映画 ひみつのアッコちゃん
「まーた人気漫画原作の安易な映画化か」と予告を見た時は思ったものだが、実際に観た人の評判が良かったので、他に観たい作品がなかったこともあり、映画館に足を運んでみた。そして「(こんな映画で)くやしい…! でも…」泣いてしまったのである。会社勤めをしているおっさんにとっての終幕は最後の山の二つ手前、一つ手前は涙を乾かすためのインターバル、最後の山は気持ち良く映画館から出るための「おみや」だった。
会社があらぬ方向へ向かっている時、往々にして中の人たちが「会社ごっこ」をしている。仕事をすること、あるいは他人から仕事をしているように見られることを目的化してしまっている状態だ。目的を持っていないから、声の大きい人の主張に唯々諾々と従うしかない。
『日本破滅論』では、ノエル・ノイマンの「沈黙のらせん」でこの危険性が説明されていた。例えば、対立する意見AとBがあり、それぞれ支持率が51対49だとする。少数派は自分が少数派だということを自覚すればするほど声が小さくなるものなので、見た目の支持率が、例えば53対47に変化する。するとますます「何を言っても無駄」な風潮が強まり、70対30に、ついには100対0になる、というのだ。しかも今は、webなど新しい「拡声器」が容易に入手できるので、少数派が多数派に転じて沈黙のらせんをつくることができる。同書では今の日本の政治における危機の一つとして、この現象を取り上げているが、会社においても同じことである。
では、沈黙のらせんに陥ると手の施しようがなくなるかと言えばそんなことはなく、小さな子供が「王様は裸だ」と言い、沈黙していた人々が語るべきことを語れば状況は打破される。その小さな子供こそ、大人になったアッコちゃんなのだ。
「頭脳は子供、身体は大人」が許されるのは劇中の綾瀬はるかだけ、であるのは確かだが、小学生でも知っている、「他人の話は最後まで聞く」という議論の根本を大事にすれば、アッコちゃんを待たずとも、誰かが王様が裸であると指摘してくれるだろう。このことは『日本破滅論』でも同種の指摘がある。
もう一点、『日本破滅論』との類似をあげたい。
「会社は結果が全て」ということを教えられたアッコちゃんは、冬休みの自由研究を「コピペ」で仕上げようとして担任に怒られる。コピペすればそれなりのものを仕上げられるが、過程の努力がないために、自分の身にならない。何のために自由研究をするのか、その目的を理解していないのが問題なのである。
『日本破滅論』では、政治の「結果責任」という言葉について、マックス・ヴェーバーの哲学が誤って引用されていると説く。「どうにもならないかもしれないが、自分は何とか頑張って、出た結果の責任は自分が一身に背負う」という崇高なる精神が大事ということであり、結果が出なかった政治家を吊し上げるという意味では決してない。
映画では、老舗化粧品メーカー「AKATSUKA」の在り方が問われる。法人である以上、増益を目指すのは当たり前だし、株主には配当を出さなければならない。しかしそれを目的化していいものか? 企業が抱える問題点に目を向けることなく安易な増資を受けることは、コピペでレポートを仕上げるのとどこが違うのだろうか。
と、「この恋には秘密がある。」というそれこそ安易なコピーから、原作を台無しにした安易な恋愛映画を想像する向きがあるかもしれないが(実際、自分がそうだった)、とんでもない。沈黙のらせんに取り込まれているサラリーマンやOLにこそ、観てもらいたい作品である。本来のメイン・ターゲットである小さな女の子にとって、面白い作品であるかどうかはわからないが、男性視点では時空を超える壮大な恋愛譚としても楽しめる作品であった。
会社があらぬ方向へ向かっている時、往々にして中の人たちが「会社ごっこ」をしている。仕事をすること、あるいは他人から仕事をしているように見られることを目的化してしまっている状態だ。目的を持っていないから、声の大きい人の主張に唯々諾々と従うしかない。
『日本破滅論』では、ノエル・ノイマンの「沈黙のらせん」でこの危険性が説明されていた。例えば、対立する意見AとBがあり、それぞれ支持率が51対49だとする。少数派は自分が少数派だということを自覚すればするほど声が小さくなるものなので、見た目の支持率が、例えば53対47に変化する。するとますます「何を言っても無駄」な風潮が強まり、70対30に、ついには100対0になる、というのだ。しかも今は、webなど新しい「拡声器」が容易に入手できるので、少数派が多数派に転じて沈黙のらせんをつくることができる。同書では今の日本の政治における危機の一つとして、この現象を取り上げているが、会社においても同じことである。
では、沈黙のらせんに陥ると手の施しようがなくなるかと言えばそんなことはなく、小さな子供が「王様は裸だ」と言い、沈黙していた人々が語るべきことを語れば状況は打破される。その小さな子供こそ、大人になったアッコちゃんなのだ。
「頭脳は子供、身体は大人」が許されるのは劇中の綾瀬はるかだけ、であるのは確かだが、小学生でも知っている、「他人の話は最後まで聞く」という議論の根本を大事にすれば、アッコちゃんを待たずとも、誰かが王様が裸であると指摘してくれるだろう。このことは『日本破滅論』でも同種の指摘がある。
もう一点、『日本破滅論』との類似をあげたい。
「会社は結果が全て」ということを教えられたアッコちゃんは、冬休みの自由研究を「コピペ」で仕上げようとして担任に怒られる。コピペすればそれなりのものを仕上げられるが、過程の努力がないために、自分の身にならない。何のために自由研究をするのか、その目的を理解していないのが問題なのである。
『日本破滅論』では、政治の「結果責任」という言葉について、マックス・ヴェーバーの哲学が誤って引用されていると説く。「どうにもならないかもしれないが、自分は何とか頑張って、出た結果の責任は自分が一身に背負う」という崇高なる精神が大事ということであり、結果が出なかった政治家を吊し上げるという意味では決してない。
映画では、老舗化粧品メーカー「AKATSUKA」の在り方が問われる。法人である以上、増益を目指すのは当たり前だし、株主には配当を出さなければならない。しかしそれを目的化していいものか? 企業が抱える問題点に目を向けることなく安易な増資を受けることは、コピペでレポートを仕上げるのとどこが違うのだろうか。
と、「この恋には秘密がある。」というそれこそ安易なコピーから、原作を台無しにした安易な恋愛映画を想像する向きがあるかもしれないが(実際、自分がそうだった)、とんでもない。沈黙のらせんに取り込まれているサラリーマンやOLにこそ、観てもらいたい作品である。本来のメイン・ターゲットである小さな女の子にとって、面白い作品であるかどうかはわからないが、男性視点では時空を超える壮大な恋愛譚としても楽しめる作品であった。
by non-grata
| 2012-09-10 09:47
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