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おっさんノングラータ

ドッグマザー

ドッグマザー_d0252390_11172798.jpg『ベルカ、吠えないのか?』のようなエンターテインメントを期待していたら、違った。画像を探してamazonで検索したところ、古川日出男は2008年に『聖家族』を上梓しているので、そちらを読んでからにしたほうが良かったかもしれない、が、新聞の書評に惹かれて書店で注文したのだった。

後に東日本大震災と呼称されるようになる、2011年3月11日に発生した大地震の後、日本全国をあげてスローガンに掲げたのが「絆」であった。肉親、友人あるいは知人が被災し、または何らかの影響を受けたことで、多くの国民が嫌でもその言葉を意識したのではないか、と思う。しかしながら間接的にしか震災と関わらなかった者は、テレビや新聞、その他インターネットといったメディアを経由してしか震災を知らない者に絆を感じろというのは難しい。もともと「線」がつながっていない携帯電話が「断線」して連絡が取れなくなった後で、通信が回復しても「線」で結ばれるわけではないように。

ナショナリズムの定義として、経済上の得失を同じ基準で考えられる地域で暮らす者である、と聞いたことがある。村から町、町から市、県、地方、そして国への流れ。江戸時代末期には、日本で暮らす人の間には、東北で暮らそうと関西で暮らそうと、似通った共通の価値観が持たれ、即ちナショナリズムが既にして醸成されていたというのだ。以降、通信インフラが拡充されるに伴い、まずは新聞、続いてラジオによって国民は統制され、テレビの普及で価値観の均一化が行われ、インターネットによって細分化されつつも、ナショナリズムは保持されている、はずだったが、途切れるはずがないと思われた携帯電話が断線したあの震災によって、前世紀型のその考え方はリセットされたのではないか。見えない絆というのは幻想で、あるいは断線されるものであり、紛い物であり、本当の絆というのは形のあるもので、目に見えるものではないか。だとすれば、漠然としたナショナリズムなどではなく、確たる絆こそを依り代に、国の、あるいはもっと規模の小さいコミュニティを再構築すべきではないか。

ちょうど、本書を読むひと月ほど前から、最も親しい人とは手紙で連絡を取り合うようになった。一方的に情報が送られてくることもあれば、こちらが書いたことへのリプライもある。ものに執着しない人だから、こちらから送った手紙はあっさり処分されているかもしれない。こちらはまだ、いただいた葉書は取ってある。取ってはあるが、形として残っているのは葉書そのものか、自分の印象に残っている、そこに書かれた言葉なのか。

そこに絆はあるのか。

などということを、『ドッグマザー』読了後、柄にもなくそんなことを考えてしまった。

【7月24日追記】
誰か教えてください

『ドッグマザー』と併せて読むと、なかなか考えさせれる。



by non-grata | 2012-07-23 12:14 | 読書

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