おっさんノングラータ

カテゴリ:映画( 63 )




年取れば変化球を打てるようになると信じてた|『人生の特等席』感想

d0252390_757741.jpg長い人生、直球ばかりが飛んでくるとは限らない。時には緩い変化球が投げ込まれて対処できないことがある。「手が泳」いでしまうというやつだ。誰もかれもが唐突に直面するカーブを打てるわけではない。打てないと開き直って打席に立ち続けるのか、打とうと努力するのか、それとも諦めて打席を離れるのか。大きな決断だ。

久々にクリント・イーストウッドが主演のみを務めた『人生の特等席』は、文字通りカーブを打てない超高校級バッターのドラフト指名を縦軸に、それに関わる人々に転機が訪れ、どう対処するかという物語。原題の「カーブ」がダブル・ミーニングで使われる。メジャー・リーグり伝説的スカウトのガス(クリント・イーストウッド)に最初に投げ込まれるのは、緑内障による視力低下。スカウトとしては致命的で、引退を迫られることになる。そして娘ミッキー(エイミー・アダムス)との確執が表面化。ガスはそのどちらとも──これまで通り──かわそうとする。

一方でミッキーは、これまでかわしてきた変化球に真っ向から勝負を挑む。試合が終わったグラウンドで、ガスがボールを投げ、ミッキーがその初球を派手に打ち返すシーンが象徴的……なのだが、そこからすんなりと人生の勝負に片がつかないのは、20年という時間の重さか。

この二人の絡むのが、かつてガスにスカウトされた「炎のストレート」(だったよね)を投げ込む好投手ながら、連投が祟って肩を壊し、トレードに放出されたジョニー(ジャスティン・ティンバーレイク)。ドラフト絡みの誤解によって、ミッキーとのアフェアを「変化球」だと勘違いしてしまう。実際はど真ん中のストレートだったのだが。

2時間の映画として捉えると、父娘の関係が修復するまでのぎこちなさにいらつかされるが、二人が濃密な時間を過ごすのが実は劇中が初めてであることを考えればやむを得ない。そのぶん、伏線回収から「ピーナッツのツケ」を支払わせるまでが慌ただしいのがご都合主義に感じられるが、これぞアメリカン・ドリームって感じは嫌いじゃない。

『人生の特等席』という邦題を非難する人がいて、確かに原題からは乖離しているのでその気持ちがわからないわけではないけれど、ミッキーが終盤で口にする台詞だし、家族で一緒にいられるのが子どもにとって何よりの特等席であることに気づかされるわけで、そんなに悪い邦題じゃない。人生のベテランと一緒なら、変化球打ちのアドバイスももらえるかもしれないしね。



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by non-grata | 2012-11-30 08:22 | 映画

あいつは反体制派だ!|『ゾンビ革命』感想

風邪が治りません。2週間目に突入。肺炎を疑ったほうがいいんだろうか。映画館では咳をこらえるのが辛かった──賑やかな場面になるまで我慢したり。




d0252390_16493510.jpg「ファン・オブ・ザ・デッド」の英語タイトルからわかるように、『ショーン・オブ・ザ・デッド』のパロディ。何だかよくわからないけれどゾンビがいる日常生活を、主人公がいかに送るかという物語である。もちろん『ショーン〜』という名作がある以上、ちょっと捻りを利かせないと全世界のゾンビ・ファンは納得してくれない。『就職難!! ゾンビ取りガール』なる漫画もこのジャンルに属し、ユニークな設定に最初は面白がって読んでいたが、最近はややトーンダウン。どれほど奇抜なアイディアも、慣れると刺激が薄れてくるのである。『ゾンビ革命』もそんな感じ。以下、ネタバレありの方向で。

誰一人、リビング・デッドのことを「ゾンビ」と呼ばず、ニュース・キャスターに倣って「反体制派」と呼び続けるのは面白かったが、やってることはゾンビ狩り。作品の宣伝文には、冴えないニートが「ゾンビになった愛する人を代行して殺します」という商売を始めたとあるが、前出の漫画ほどビジネス色が強いわけでない。その戦闘シーンは様々な映画のパロディ。ブルース・リーよろしくゾンビを踏み殺して変顔するとか、首切りワイヤーは『ゴーストシップ』を思い出すとか。

上映時間の90分が長く感じられるほど、粗っぽい、雑なつくりだったが、そんなつっこみは野暮というものだろう。

未来ある若者たちとおっさん一人を急ごしらえの水陸両用車に乗せて、マイアミへ向けて送り出すファン。自分は一人キューバに引き返して「反体制派」との戦いに戻るが、エンド・ロールの途中で(イラストだけど)マイアミへ向かったはずの面々がバックアップ。イラストだけにファンの夢の可能性もあるけれど、冒頭の駄目おっさん二人の会話──「亡命してマイアミ行くか?」「何もしないでも面倒みてくれるキューバが一番」「そうだよな」──からすると、やっぱり居心地がいいから戻ってきたんだろうな! だって、どちらにもゾンビがいるのなら、資本主義より共産主義の国のほうが楽に暮らせそうだし。



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by non-grata | 2012-11-19 17:19 | 映画

フィクションとノンフィクションと|『アルゴ』感想

d0252390_834714.jpg「事実を基にしたストーリー」だが、終盤のスリリングな展開はフィクションかもしれない。ハラハラドキドキしないと映画を観た気がしないという観客のニーズに応えるものだ。当事者の緊張状態は極限に達していたと思われるが、周到に準備された計画であったため、救出作戦は案外すんなり進行したのではないだろか。と思えるくらい、救出作戦に至るまでのプロットが綿密に描かれていた。

冒頭はドキュメンタリー・タッチ。粒子の粗いフィルムが混じり、フィクションとノンフィクションの境界が曖昧にされる。しかしイランで革命が起こり、テヘランのアメリカ大使館が暴徒によって占拠されたのが事実なら、運良くそこから6人が逃げ出し、近隣にあったカナダ大使私邸に逃げ込んだのもまた事実である。逃げ出した6人は見つかればスパイ容疑で銃殺される。カナダ大使も本国から帰還命令を受ける。そこでCIAは救出作戦を立てた。

自転車でトルコ国境まで脱出……冬のイランでそんなことは不可能だ。宣教師に化けたエージェントを送り込む……外国人宣教師はイランにいない。農業指導のスタッフとして……冬なのに? 別居中の息子と電話しながらテレビで『猿の惑星』を見ていたトニー・メンデス(ベン・アレフック)は思いつく。そうだ、中東で映画を撮ることにしよう! 自らも偽スタッフとしてイランに潜入して6人に接触、彼らを監督や脚本家、美術監督やカメラマンに仕立てて脱出するのだ!

ここからは、映画製作の舞台裏がミニ・ドラマとして展開される。偽映画とは言え、イラン当局に確認されてボロが出るようでは話にならない。脚本を吟味し、脚本家協会から映画化権を買い取り、キャスティングも決めて記者発表も行う。新聞に記事も掲載してもらう。ここでメンデスを補佐するのが『猿の惑星』の特殊メイクを担当したジョン・チャンバーズ(ジョン・グッドマン)。グッドマンと言えば、最近では『アーティスト』でも映画製作会社の社長を演じていました。

囚われの6人を偽映画のスタッフとして脱出させるというホラ話の後で、映画づくりのリアルな話が描かれて、これは現実なんだと観る者を納得させる。『猿の惑星』に『スターウォーズ』『宇宙空母ギャラクチカ』など、当時流行ったSF映画の本物の映像やグッズ、コスチュームが登場して、リアリティは嫌でも増される。

メンデスがイランに潜入してからはさながらスパイ映画。身バレすると即処刑という恐怖の中での「お芝居」が始まる。最後はこの作戦(ハリウッド・オプション)が機密指定されたのと同じように、再びドキュメンタリー・タッチに戻って物語は「封印」される。メンデスは栄光なき英雄となったが、何も言わなくても全てを理解してくれる存在が彼にはいたのだった──と、実に盛り沢山な内容ながら散漫になることなく、最初から最後まで飽きさせなかった。満足満足。

ただ一点、残念だったのは(ここから激しくネタバレ注意)、6人よりも家政婦の安否が気になって仕方がなかったこと。彼女がイラクに逃げ込むところを先に見せてもらえていたら、ハリウッド・オプションの成功を心から喜べたのだけれど。



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by non-grata | 2012-11-13 08:59 | 映画

初見さんお断り!?|009 RE:CYBORG

d0252390_1636714.jpg『希望の国』に『アルゴ』と、観たい映画は他にもあったのだが、つき合いで『009 RE:CYBORG』を観ることに。『サイボーグ009』は知識としては知っていてもちゃんとは見ていない/読んでおらず、悪の組織によってサイボーグに改造された9人が、ギルモア博士とともに謀反を起こして地球平和のために戦うという基礎の基礎しかわかっていない状態で鑑賞した。

映画の後でカラオケ・ボックスに行き、一人が「誰がために」を熱唱したが、そこで流れた映像がどうも「神々の闘い」編らしい(と、別の一人に教えてもらった)。「ブラックゴースト団を倒した後、サイボーグ戦士たちは神話世界で戦ったんだよ、確か。ああほらほらこのシーン、ここで神が現れて全て終わらせてしまう」とか何とか。いやはや、そんな壮大な話だったとは! 事前に下調べしておくべきだった。

後で読んで参考になったのは、
現代とリンクした「009」を作った――『009 RE:CYBORG』神山健治監督に聞く
サイボーグ009 エッダ[北欧神話]編
リンク先の記事2本。

原作の[北欧神話]編では、人類は超古代文明を持ちながら、その進むべき方向を誤ったのだとされている。本作でも、「彼の声」は人類の歴史は過てる方向に進んでおり、リセットすべきだと語りかける。そうして世界中の高層建築物をターゲットにした連続自爆テロが発生するのだ。いや自爆テロに留まらない。「彼の声」に命じられるまま、巡航ミサイルや弾道核ミサイルまで発射される。

しかし、果たしてそうか? 人間は完全な存在でないから、間違いを犯すかもしれない。けれども完全でないからこそ、完成していないからこそ、常に可能性が残されているのではないか。009こと島村ジョーはその可能性に賭けた。来世の幸福を夢見て「神の声」に従って自爆テロを実行する人間と、人間の可能性を信じて「彼の声」に抗ったサイボーグ。記憶を失い、普通の高校生として生活していた彼もまた、自爆テロで六本木ヒルズ(?)を吹き飛ばす寸前までいったことを思うと、その対比は実に興味深い。

敵は「神」なのか。神は存在するのか。ドバイで核攻撃に巻き込まれた009のもとに、少女の姿をした天使が舞い降りて言う。「神は乗り越えられない試練は与えない」と。だとすると敵は……。

天使の化石や天国(?)など、ちょっと反芻しただけではわからない謎が残されている。やはり下調べをしてから観るべきだった──あるいはもう一度観るべきか。今度は3D版で。



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by non-grata | 2012-10-29 18:23 | 映画

『ヤマト2199』が面白すぎて生きるのが辛い|宇宙戦艦ヤマト2199第三章「果てしなき航海」

d0252390_8381984.jpg第二章では、地球圏脱出から冥王星基地攻略という一連のエピソードが描かれたが、第三章では独立した三つの物語が綴られる。ちょうど、テレビ・シリーズの3回放映分といった趣だった。戦闘シーンは少なかったが、そのぶん、ヤマト艦内とガミラス帝国それぞれの日常風景や内幕が描かれていてお腹一杯。乗組員たちも、70年代の純朴な若者ではなく、21世紀の若者然としており、観ていてなんだか微笑ましい。

太陽系赤道祭と地球との最後の通信は、艦長が未成年の古代に飲酒を勧める代わりに、機関長が艦長を慮って艦長室にやってくる。その件で号泣。古代や山本など、身寄りのない者たちが実に自然に、気取ることなく船外修理に従事するクルーと作業を交代し、最後の通信の機会を与えるところもぐっとくる。作業のため、「お肌のふれあい会話」をする古代と山本を展望室から眺める森、その森を追いかける南部。加藤を気遣う篠原(ここでまた男泣き)、恐らく最後4秒までずっと無言だった加藤(父)など(ここで男泣きせずにどうする!?)、抜群の掴みだった。「真っ赤なスカーフ」でまたまた落涙。

一転、エンケラドゥスで鹵獲したガミラスのロボット兵とアナライザーとの交流はオリジナル・エピソードなれど、『機動戦士ガンダム』で言うところの「ククルス・ドアンの島」のような泡沫ストーリーではなく、もしかするとメイン・ストリームに関わってくる伏線となるかもしれない。劇中作『観測員9号』の章題はSF小説のタイトルに由来するが、その分析は詳しい方にお任せするとして、ロボットが意思を持つのかどうかという命題は、数多のSF作品でも取り上げられてきたことである。これはエイリアン(外国人含む)といかに向き合うか、という問題にも通底する。

第10話ではガミラスとの共闘が発生する。正確にはザルツ人艦長のラングとだが、約束を違えてもヤマトをサルガッソーに放置しようとする親衛隊将校(「SS」の襟章つき)と対立する姿勢は、ナチズムから距離を置き、騎士道精神を重んじたドイツ装甲艦〈アドミラル・グラフ・シュペー〉艦長ラングスドルフ大佐を彷彿させる。〈アドミラル・グラフ・シュペー〉は乗員を陸揚げした上で自沈し、ラングスドルフ艦長はドイツ帝国時代の艦長服に身を包んで自決した。ヤマトへの射線上に位置したため、ゲール艦隊に「誤射」されたが、ラングもまた、誇りを大事にしたがゆえの自決だった(男泣き)。

さて、功を焦ったゲールの無策のせいで、艦隊司令官の娘であり、エース・パイロットが一人、ヤマト艦内に取り残されることとなった。ヤマトのクルーは果たして、オートマタ同様にガミラス人と心を通わせることになるのか?* イズモ計画は生きているのか? ドメルとはどんな戦いを見せてくれるのか? 若本艦隊司令の活躍は? とりあえず、来年1月までは死ねないな。

* 劇場で買ったBDを見直して気づいたが、アナライザーとガミロノイドは「犬」「猫」を認識することで理解させようとしたのに対し、次の話では、山本と通信員として送られたガミラスのパイロットが「キャットファイト」をして、(恐らくその次では)「ドッグファイト」を行うという、拳を交えて互いを理解しようとする対比が面白い。



それでもって、上映後はおっさん&おばさんおねえさん方と打ち上げ。この日のために「ヤマト2199」(バンダイ1/1000)を完成させたかったけれど船体のみ間に合った。ダイソーで買ったLEDランプをばらして、色が変化するLEDは艦橋に、波動砲と波動エンジンはそれぞれ青、赤のLEDを積んで、格納庫に収めたバッテリー&スイッチに接続してある。
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スナップフィットはいいが、とにかく隙間が空くので、ちゃんと作りたい人は大変。



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by non-grata | 2012-10-16 09:51 | 映画

永遠のコンテンツ、になるのか|劇場版魔法少女まどか☆マギカ〔後編〕永遠の物語

d0252390_921309.jpg総集編だった前編に対して、後編で何かしかけてくるかと期待したが、後編も総集編だった。もちろん新規カットが散見され、見つけるたびに小さな喜びはあったし、泣きどころではまた泣かされるしで、楽しめなかったと言えば嘘になるが、期待したほどではなかったというのが正直な感想。

特に恐らく多くの人が不満に感じただろう「コネクト」の扱い。あれはテレビ放映だからできた演出の妙だと再認識させられたが、せめて「ルミナス」を無理に使わなくても「コネクト」まで引っ張ってきてからオープニング、というわけにはいかなかったのだろうか。いかなかったんだろうなあ。

「映画ならでは」の良さが感じられなかったぶん、「シリアルなテレビ放映ならでは」の面白さが際立ってしまったが、それだけ元の完成度が高かったということだろう。最初から映画としてつくられる、2013年公開予定の「新章:叛逆の物語」に期待したい。

テレビ版と異なった点と言えば、歴代の魔法少女(これにはアンネ・フランクやジャンヌ・ダルク、卑弥呼にクレオパトラが含まれる)が斃れる直前のソウルジェムに、先達の魔法少女の姿が映し出されていたこと。これは魔法少女の系譜を描く単なる演出だったのか、それとも新章につながる伏線となるのか。

以下、蛇足。最高齢の観客であることを覚悟して観に行ったが、はるかにご高齢の夫婦がご覧になっていた。TOFOシネマズなんば、初日2回目の上映。ネットで事前予約しないとチケットは確保できないはずだから、ふらりと立ち寄ったわけではあるまい。是非感想をうかがいたいものである。



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by non-grata | 2012-10-15 10:02 | 映画

劇場版魔法少女まどか☆マギカ〔前編〕始まりの物語

d0252390_810549.jpgさすがにおっさん一人で観に行くのは憚られたので、円盤が売りに出されるのを待ちますか、と思っていたら、家人も観たいというので「仕方ないなあ」と劇場へ。事前に座席を予約していったから良かったものの、まさかの満席。直前に観た『アイアン・スカイ』の客筋やマナーが悪く、げんなりしていたのだが、こちらは満席にもかかわらず場内は静かなもので、落ち着いて映画を観られた。

良くも悪くも総集編で、そうなると、叙述トリックにも似た驚きやパーセプション・ギャップを利用したインパクト、毎週放映によってつくられる「間」は楽しめない。酒飲みながらBD見ているといつの間にか寝てしまうのと同じで、ついつい意識が飛びそうになった──が、そこは新しいカットや演出で興味を持続した。

ファンに怒られてしまうが、ミステリアスなストーリーとインパクトある描写を取り除いてしまえば、自分の娘たちが一生懸命に頑張る学芸会を見ているよう。これはもちろん、脚本や演出が「学芸会レベル」と言っているのではなく、魔法少女たちが自分の役割を演じるひたむきさに同質のものを感じる、という意味である。これだけ頑張っている子供たちに、「希望と絶望は等価交換」なんて思わせる世界にしちゃあいけないよなと、子供に恵まれなかったおっさんはひたすらに思うのだ。

希望と絶望がゼロサム・ゲームになるとすれば、嘘を言わなければ希望を与えられない時で、その嘘が明らかになった時には絶望が訪れる。訪れなかったとすれば、ついた嘘によって別の希望が生まれて、そのマイナスを補填してくれたからのこと。けれどもそこに嘘が混じっていれば、また同じことの繰り返しになる。なるんだけれど、嘘を繰り返す術も、すり替える術も学んだ大人はどうにかできてしまう。やはりまどかママのおっしゃる通り、子供のうちに間違えて傷つく方法を学んでおくべきだ。大人になって、いつでも傷つく覚悟ができるように。

佐倉杏子が食べているお菓子がいちいち変更されていたが、それが〔後編〕で観る者にとっての驚きに変わるサインであると期待しつつ、今週末も劇場へ足を運ぼう。



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by non-grata | 2012-10-10 08:39 | 映画

アイアン・スカイ

d0252390_8294696.jpgナチの残党がどこかに逃げて再起を目論んでいる、というのはよくある話で、有名どころでは『ブラジルから来た少年』であったり、『Nazis at the Center of the Earth』であったり。そのどちらも根拠がないわけではなく(?)、前者はアルゼンチンやブラジルでファシズムがあったし、後者で言えばナチス・ドイツは南極探検を行ったこともある(飛行機から「ここは第三帝国領」を示すパイクを落としただけだと記憶するが)。

じゃあ月は? ロケットの父と言われるフォン・ブラウン博士もいたことだし、パンターの砲塔を積んだ円盤の写真もあるし(もちろんフェイクだ)、月の裏側に逃げたっていいよね。

仮にそんなことができたとして、70年以上、外界と接することなく純粋培養されたナチと、我々が生きるリアル・ワールドとの対比は当然、面白いものとなる。テクノロジーで言えば、真空管で動く巨大なコンピューターに代表されるように、ナチは恐竜的進化を遂げているのに対し、地球のそれはiPhone。スマートになった。ところが、政治はむしろ後退した。

2018年のアメリカ、初の女性大統領となったサラ・ペイリン(がモデル)は再選を目指し、広告代理店を使ってあの手この手を画策する。黒人を月に送り込んだのもその一環(「誰がくろんぼを月へ送れる?」「Yes, She Can!」といったポスターが街のあちこちに貼られている)。ところがその、アポロ何号かが事故に遭って消息を絶つ。そこで現れたのが、月の最終兵器を動かすのに必要な小型コンピューターを収集に地球までやって来た次期月面総統のアドラー准将。彼とその婚約者が唱える国家社会主義ドイツ労働者党のスローガンは、強いリーダーを求める民衆の心に訴えかけるものだった。純粋アーリア人の見てくれもいい。アドラーは選対本部長に選ばれ、広告代理店はサラ・ペイリン(偽)のためにスマートな意匠を用意する。

このあたりの皮肉は、表層的なものに終わっているとも取れるが、現実も歴史の表層的なところをなぞっているようにしか取れないので仕方がない。ここから大いにネタバレになることを予告した上で書くが、それはアメリカが躊躇なく核兵器を使用することや、第四帝国が抗戦能力を失した後、ヘリウム3の採掘工場が月の裏側にあることがわかった瞬間、それまで結束して戦っていた大国が我先に権利を主張して戦争が始まるなど、たちの悪いジョークだけれどもそれが現実だったりするから困る。

単なる悪ふざけの映画かと思えば、随所に見られる皮肉が面白く、個人的にはメカのデザインや戦闘シーンも満足だった。メテオ・ブリッツクリークなあ。

捲土重来はろくなことにはならないので、ラストシーンを見る限り、適度な孤立主義こそ幸せな国づくりにつながるのではないかと嘆息するしかない。



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by non-grata | 2012-10-09 09:31 | 映画

劇場版 TIGER & BUNNY -The Beginning-

d0252390_138175.jpgもともとマニアしか見ないであろうと思われた深夜アニメのはずが、マーケティングが良かったのか、それとも作品にそれだけの力があったのか、一般層まで巻き込んでのスマッシュ・ヒット。ついには映画化、来年にはその続編も上映されるという人気ぶりの『TIGER & BUNNY』。公開初日、郊外のシネコンでのレイトショーだったが、そこそこ客が入っていたし、わかりやすい客層というわけでもなかったので、なるほどこの作品はマニアだけのものではないのだなあと確信した。

本作はテレビ・シリーズ前半の総集編にオリジナル・エピソードを加えたもの。盛りを過ぎてもなお、ヒーローにこだわるベテラン(虎鉄)と、新進気鋭の若手(バーナビー)とのバディ・ムービーと捉えることもできる。テレビ・シリーズでは後半にならないとわからなかった虎鉄の現役への執着が、劇場版では早めに説明されているのは嬉しい配慮。バーナビーが「ツン」から「デレ」へと変化するミッシング・リンクも本作で補われた感がある。

結局『アベンジャーズ』を観ることはできなかったが、わかりやすい敵にヒーローが力を合わせて戦うのがアメコミ流なら、悪党もヒーローも同じ異能力者「ネクスト」で、毒をもって毒を制しようという偉いさん、それをエンターテイメントとして昇華して一儲けしようと考える企業、普通の人同様に悩みを抱えるヒーローたちが入り乱れて、時にシリアスに見せ、時に小ネタで笑わせようというのが日本流、いやタイバニ流。映画のスケールでは負けていたかもしれないが、琴線に触れるのはこちらのような気がする。

●週替わりでエンドロール後のお楽しみを用意するとは、何というぐう畜。
●タイバニのテーマ・ソングはやっぱりUNISON SQUARE GARDENだよね。相変わらず歌詞は聴き取れないし、聴き取れたとしても意味わからないけれど。



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by non-grata | 2012-09-25 13:32 | 映画

鍵泥棒のメソッド

d0252390_12522760.jpg「メソッド演技法」とは、「役柄の内面に注目し、感情を追体験することなどによって、より自然でリアリステックな演技・表現を行うこと」なのだそうだ。ウィキペディアにそう書いてあった。

タイトルにある「鍵泥棒」は堺雅人。35歳で定職なし、彼女なし。線路近くの風呂なしアパートで暮らしている。売れない俳優。銭湯にいた殺し屋・香川照之は石鹸で足を滑らせて頭を痛打。記憶を失ってしまう。香川のロッカーの鍵を自分のものと交換し、記憶がなくなったのをいいことに、堺は香川と入れ替わろうとする。香川は売れない俳優に、堺は殺し屋に──もっとも、その正体に気づくのはずっと後で、「羽振りのいいおっさん」程度の認識しかない。

意識して入れ替わった、しかも(売れない)俳優の堺だが、メソッド演技法については勉強不足だったようで、やがて香川の代役を務めなければならない事態に追い込まれてもうまく演じられない。「自然でリアリスティックな演技・表現」を行えないのだ。一方、記憶のない香川は自分が置かれた状況を分析し、その中でベストを尽くそうとする。演技の勉強もする。その差が面白い。

けれども、二人ともあることがきっかけで事態を大きく変化させる行動を取る。その時期は別々だが、きっかけは同じ。「感情を追体験」したのは間違いない。メソッド演技法だ!

もしかすると、大多数の人は広末涼子演じる編集長のように「こうあらねばならない」自分を演じているのかもしれない。それが何かのきっかけで、本当の自分の「内面」に気づいて行動するようになる。それは「こうあらねばならない」自分の亜流かもしれないし、本当の自分かもしれない。それに気づかせてくれる「人生の鍵」が、どこかに落ちてないものだろうか。



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by non-grata | 2012-09-24 13:25 | 映画

今年は何でも五つ星
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