おっさんノングラータ

書き言葉に揺らぎは必要か|百年前の日本語

d0252390_18533919.jpg作家の丸谷才一氏が亡くなったのは2週間ほど前のこと。氏の日本語表記の方法は独特で、いや発音と表記、意味と表記のねじれを正した仮名遣いこそが正しいのであり、美しかった。あの美文がもう読めなくなるのは残念至極。初めて読んだのはエッセイだったが、その独特な言い回しにすっかり魅了された。

書籍として発行するなら、大新聞で見られるような標準的な言い回しを使わなければならないのではないかと、最初は子供のような意見を持ちもしたが、読み進めるうちに氏の仮名遣いのほうが正しいことに気づく。美しいものは正しい。『日本語のために』を読んで、さらにその思いを強くした。

書き言葉の標準化の歴史はこの100年のことだそうで、本書では夏目漱石自筆の原稿や新聞、辞書など実例をあげながら詳しく解説してくれる。例えば「実」と「實」、「対」と「對」など、新字体と旧字体が混じっていたり、外来語である「ハンカチ」に漢語なら「しゅきん」、和語なら「てぬぐい」となる「手巾」を当てたり、「幸福」という漢字に和語「さいわい」と振り仮名を振ったり、実に揺れ幅が大きかった。その幅が次第に狭まっていく様を丁寧に解説してくれる。あまりに丁寧すぎて、恥ずかしながら何度も睡魔に襲われた。

新聞にしろ公文書にしろ、書く側も読む側も標準化されているほうが面倒はない。効率的に国民の教育水準を引き上げて国力を上げるのにも有効だ。国語が標準化されてこそ辞書も編纂できるし、外国語の翻訳もフォーマット化できる。富国強兵、脱亜入欧を掲げる明治政府にとっては、書き言葉の標準化は自然の流れだったのだろう。

反面、面白みがなくなったのも事実かもしれないが、漱石の手書き原稿と新聞掲載時、単行本収録時の表記の違いに時代背景を感じたり、日本語の変化を読み取る面白さは、歴史の連続性を俯瞰できる100年後の今だからこそわかることで、その時点では大事(おおごと)ではなかったのかもしれない。大事(だいじ)なのは100年の標準化が行き着く先で、著者が「おわりに」で書いている通り、常用漢字表の「ルールに従って教育が行われ、「公」性のたかい文書が作成されることは確かであって、決められたルールは日本語全体のあり方に影響を与えることも確かなことである。したがって、稿者としては、もしも『書きことば』に関わるルールを決めようとするのであれば、せっかくの取り決めは筋の通った、一貫した表記システムの確立に資するものであってほしいと願うだけである」。

しかし標準化の反動からか、子供の名付けにおいては実に揺らぎが大きい。いわゆるDQNネーム。揺らぎが大きいぶん、不幸(ハードラック)と踊(ダンス)っちまう確率が高いのかしら。不幸な事件や事故に巻き込まれた子供の名前が報じられるたび、ついそう思ってしまう。

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by non-grata | 2012-10-25 09:22 | 読書

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